私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。
やむえず人生軌道を修正し、この当時も民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
何とか大企業に中途入社する為に、
ひとつの手段としてコンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフト学科を学び、近所の家電販売店の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知った。
日本ビクターという会社で、中途入社の募集があり、確か経理、情報分野の要員であった。
私はこのお方のご尽力もあり、入社試験、そして面接を二回ばかりした後、ほぼ内定となった。
この当時の日本ビクターは、確かビジネス週間誌『ダイヤモンド』で、
民間企業の申告所得ベスト100位以内に常連する大企業であり、
私は内定する直前、このお方から会社に来るように云われた。
私は大企業の重役の役員室は生まれて初めての上、内定の確定ができるかどうかの瀬戸際であり、
この頃は私は一般社会の常識も殆ど無知で、向う気の強かった私も緊張した。
『情報畑も良いけれど・・経理畑はどうかしら・・』
とこのお方は柔らかな視線で私に云った。
『経理関係は・・不得意の分野でして・・』
と私は云った。
このお方にしてみれば、事業本部単位の独算採算制が経営方針のひとつでにあり、
経理本部は昇進などで何かと有利と聞いたりしていたので、ご好意の上、私に云ったのである。
『私は情報分野でも苦手で・・できましたら音楽事業本部に入れれば、最も嬉しいことでして・・』
と私は厚かましいことを懇願して、このお方に申し上げたのである。
『君がどのように想像しているか解からないが・・決して華やかな分野ではないょ・・
音楽の管理畑でいいねぇ・・』
とこのお方は私の要望を受け入れて下さった。
私はハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、ソフト商品の方が波長に合い、
同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと刺激があると思い、無理難題を申しあげたのである。
このような状況で何とか日本ビクターに中途入社が出来たのは、1970(昭和45)年4月であった。
私は本社に初出社後、音楽事業本部の見習い社員となり、
ともかく現場を学べと指示されて、いきなり横浜工場にある商品部に配属となった。
隣接した製造部でレコード、カセット、ステレオ8(エイト)の商品を製造された後、
商品部は受け取り、商品の中央拠点として、各営業所の商品在庫までコントロールする部署であった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座であった。
本体のビクターレコードの森進一、青江三奈、RCAレコードで内山田洋とクールファイブ、藤圭子、
フィリップスレコードからは森山良子などが、ヒットを多発していた。
私は入社早々、森進一、青江三奈などの曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と上司たちは私の音楽に無知にあきれていた。
やむえず私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、ビクターの販売している歌手の曲を学んだり、
そしてクラシックに関する知識の一環として、音楽月刊雑誌の『レコード芸術』を読みはじめたのである。
数ヶ月した頃、フィリップスレコードが外資の要請により、レコード会社として独立すると知ったのである。
この当時、数年前にCBSがソニーと折半でCBS/ソニーのレコード会社が設立され、
外資の資本参加のはじまりでもあった。
私はこのフィリップスレコードが独立した日本フォノグラムというレコード会社に転籍の辞令を受けて、
レコード会社はすべて中小業であるので、何かと苦楽の大波、小波をまともに受けたのである。
こうして新レコード会社で商品管理の現場を学び、
半年過ぎた頃に中途入社の対象の正社員登用の3泊4日の研修を受けた後、
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまったのである。
システムの運用、開発に関しては、既にビクターの音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだのである。
このような関係でビクターの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。
こうした中で、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。
第2章
まもなくビクターの音楽事業本部もレコード会社として独立し、その後RCAレコードも分離独立したので、
ビクターのレコードはCBS/ソニーに首位の座を明け渡し、その後も長期に及びCBS/ソニーの独走となった。
こうした中で、独立したビクター、RCA、私が勤めたフォノグラムは、
日本ビクターからの資本関係の比率は多少は違いがあったとしても、
兄弟会社のような存在となり、共同システムを開発しあったりし、お互いに交流を重ねたりした。
そして各レコード会社の情報責任者が集結した日本レコード協会の情報システム部会などで、
業界としての共通のシステム考案し協議したり、研修旅行なども毎年一回を繰り返し、
各社の情報責任者とも淡き交流を重ねていた。
こうしている中、勤めているフォノグラムは業績に低迷し、経費削減のひとつとして、
情報処理をビクター情報センターに委託を止めて、自社で完全処理体制を命じられ、
私は数名と共に互いに奮闘したのである。
ソフトの基幹の開発は外部のソフト専門会社に委託したので、
プロジェクトを作り、管理の説明、そしてシステムの協議し、オフコンの大型を導入してもらい、
検証処理を繰り替えたりすると、結果としては日曜日だけは休日にしょう、と私は苦笑しながら云ったりした。
ある日、テスト処理をしている深夜、私はビルの外階段の踊り場で、
煙草を喫いながら六本木から観る防衛庁の非常灯を通して、青山ツィンタワーを観たりすると、
ワーナー・パイオニアの入居しているビルであり、
あそこの会社は7名で情報部隊で編成しているが、我が社は3名かょ、
とレコード会社の格差を深く感じたりしたのである。
第3章
私が勤めていたフィリップス・レコードを主体する日本フォノグラムは、
外資はアメリカのCBSとソニーで折半としたCBS/ソニーに続いて第二番目となり、
オランダのフィリツプス50%、日本ビクター40%、松下電器10%との資本構成で通産省から認可され、
1970(昭和45)年の6月に設立された。
そして1972(昭和47)年の1月に於いては、欧州本土の二強であるオランダのフィリツプスと西ドイツのシーメンスが、
イギリスのEMIに対抗するために音楽分野で合併して、ポリグラムを設立した。
日本でのシーメンスはポリドール、フィリップスはフォノグラムであり、
お互いに二頭立てのような馬車のように競争させられたが、
しばらくの年月は私達のようなレベルでは、お互いに交流はなかったのである。
1980(昭和55)年4月に於いて、東芝EMIに所属していたアリスが脱退し、
アリスのヤング・ジャパンがポリグラムと折半で、ポリスター・レコードを設立した。
そして販売受託は私達のフォノグラムが担当し、製造はポリドールがした程度であった。
その後、日本市場に於いて、ポリドールが業績が低迷となり、
日本の筆頭株主の富士電機が1983(昭和58)年の10月前に日本ビクターに譲渡した後、
日本ビクターはポリドールの再生を図る為に、私達のフォノグラムをポリドールに販売委託させたのである。
私は自社の独自システムを完成してまもない時に上層部の人から指示され、
ポリードルに販売委託する管理面に関する対応をし、
初めて具体的にポリドールの管理畑の主要の方たちと対応協議を重ねたのである。
私達のレベルにおいては、ポリドールとフォノグラムの合体のポリグラムとして本稼動をするのかしら、
と期待をしていたのであるが、実際に本稼動をしたのは10年後の1993(平成5)年の4月からであった。
この10年間に於いては、ポリドールは新生となった社長のもとで、
受託販売を成功を重ね、大幅に成長し、そして日本ビクターの株主率を低下し、やがて外資100%に変貌をした。
この少し前、私達のフォノグラムも外資100%となったりしていた。
このポリグラムが本稼動をしたのは1993(平成5)年の4月からであり、
私達のフォノグラムはポリトールと合体したのであるが、
実質はポリドールが圧倒的に販売額が大きく、組織、社員数も大きくポリドールに吸収合併されたのが実態である。
第4章
やがて私達はポリグラムの一員としてお互いに健闘していたが、
その後まもなく社長が交代され、自社の邦楽強化、管理体制の強化で首脳陣も大幅に改定され、
外資のメジャーにふさわしい会社に大きく変貌をした。
その後、ポリグラムがカナダの洋酒を主体とするシーグラムに買収をされた。
このシーグラムの傘下にMCAレコードがあり、成長が望まれる音楽市場の強化が目的であると、
私達は知らされたのである。
MCAレコードはユニバーサル・レーベルなどのを管轄され、
日本の市場に於いては、日本ビクターがMCAと合弁で、MCAビクターのレコード会社を設立していた。
こうして私達がシーグラムの傘下としてポリグラムに勤め、MCAレコードの取り扱いの中、
両者の互いの戦略の合意として、ビクター音産の改称後のビクター・エンタティメントにポリグラムは販売委託し、
ポリグラムはMCAレコードを傘下に収めた。
その後は、肝要のシーグラムをフランスのビバンディが買収し、まもなくユニバーサル・ミージックと改称した後、
再び私たちは自社で販売網の体制として、今日に至っている。
こうした株主の変貌で、私達はポリグラムからユニバーサル・ミージックに変化したのであるが、
この音楽業界を取り巻く環境が、この15年間で大幅に変化したのである。
このことは図らずも読売新聞の経済部の記者にご指摘されたとおり、
《・・
音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。
人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。
一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。
・・》
レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であり、
日本レコードセンターという会社である。
この会社は日本ビクターの資本が中核となり、私が入社直後に勤めた商品部が母体となり、
各レコード・メーカーの協業として、音楽ソフトの商品を全国に保管はもとより、
音楽ソフトの販売店などに物流する専門会社であった。
音楽ソフト商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつのユニバーサル商品の専用の物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。
私は、このセンターで歓迎会をして頂き、
『鮭(サケ)が生まれた川に再び戻るように・・
音楽ソフト商品を取り扱う物流商品センターに・・30年ぶりに戻りました・・』
と照れながら挨拶をしたりした。
そして5年後、私はこの出向先で定年退職をしたのは、2004(平成16)年の秋であった。
私は大手、中堅のレコード会社の体験を時代の変貌と共にしながら、
ある時は障害レースのようにくぐり抜け、数多くの人とめぐり逢い、別れも告げたりしてきた。
そして、この間に満天の星空のように音楽の曲を知ったりした。
私はレコード業界の各会社はもとより中小業であり、
この勤めた35年の間でも、幾多のレコード会社の興亡もあり、つたない私は翻弄もされたが、
私は定年退職後は、更にレコード業界は激動な時代を加速していると知り、
私が勤めた時代は、確かに幸福な時代を過ごせた、と改めてかみ締めたりしている。
今回、日本ビクターが傘下の音楽ソフト専門会社であるビクターエンタティメントを売却する方針と知り、
私は何かとビクターエンタティメントにお世話になった身として、寂しく愛惜を重ねたりしている。
次回は私が定年退職後のここ5年前後の、私が感じてきたレコード業界の加速された激動な時代を綴る。
《つづく》
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