私は東京の調布市に住む年金生活の81歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
本日の11時過ぎ、家内の妹より、家内に電話連絡があったりした。
家内の母が入院しているスタッフより、
病状が悪化し、危篤に近い・・、と電話連絡を受け、
家内は家内の妹と入院先の最寄り駅で、待ち合わせを確認して、
先程、出かけたりした。

家内の母は私より14歳年配で、独り住まいをし、
長女の家内と妹で、介護したりしてきたが、
やがて要介護の身となり、やむなく介護施設に入居した。
こうした中、昨年の12月中旬に検査した結果、
医師より入院指示があり、病状の状況を見守られてきた・・。
そして過ぎし10日の11日になる直前の真夜中、
入院しているスタッフより、家内に電話があり、
病状が悪化している・・、と連絡があったりした。
やがて家内は、早朝に家内の妹と合流して、
入院している病院に行ったりし、幸運にも家内の母の体調は、
何とか取り戻りしたりした。
このような経過があったりし、今回は危篤に近い・・状態と
スタッフ連絡され、家内と妹は入院先に向かっている。
私は我が家で連絡を待機している・・。
こうした私は、私の幼年期に於いて、危篤から死亡の知らせまで、
されたが、よみがえった体験を思い馳せてしまった・・。

私は今住んでいる近く生家があり、
1944年(昭和19年)年の秋に、農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であったりした。
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を
小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思えた。
このような中で、祖父と父は、
三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。
やがて、私の下に1947年(昭和22年)の1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごし、
いじけた可愛げのない子となり、その上、無口であった。
このような状況下で、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたりした。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、
医師から叱咤を受けたりした。
しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として、常備薬を配布していた時代であった。
そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。
まして、あの当時は専門の小児科などは、私の住む地域にはなく、
1955年(昭和30年)の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。

私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された。
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ、心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもなく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを
私の唇につけたした・・。
私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。
そして母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたりした。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだした・・。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。
そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。
こうしたことは、父は私が小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、
まもなく父の妹のひとりの叔母から、私は教えて頂いたりした。
その後、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数回、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に言ったりした。
或いは叔母のひとりが、何かの会合の時、
『XXXは・・一度死んだ身なので・・長生きするわょ』
と私に励ましの言葉のような意味合いで、言われたこともあった。

私の父は、肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
私は中学生の頃から、父の死の42歳を乗り越える責任がある、
と漠然と思ったりした。
やがて私が42歳になった時は、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは、
生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年退職の5年前の55歳の頃は、
定年後10年間だけは、何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとの70歳以降は、余生と思ってきたりした。
このように私は、死生観は移り変わってきたが、
もとより死は、天上の神々の采配に寄るものだ、
と81歳の今は受け止めている。
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